2016年10月07日

日弁連人権擁護大会「死刑の廃止について考える」

今年の日弁連人権擁護大会は、福井で開催された。

テーマは3つであるが
全体会の討論は、ほとんど「死刑廃止は是か非か」の死刑問題に費やされ、
可決されたものの議論は平行線のままに終わった。

私自身は、死刑は、究極の人権である生命を国家権力の名において奪うものであり、
背景には「報復の思想」があり、廃止すべきと考えている。

如何に様々な死刑存置の正当性を主張してみても
その背景にあるのは「報復の思想」ではないだろうか。
それが、私人の報復、かつての「仇討ち」を私人が行うことを禁止し、
その代替として国家権力の名によって殺人が行われることは、
過去人類が繰り返してきた戦争容認の思想と同根である。
戦争は国家と国家による殺し合いであり、
どんな理由があれ、近代人権思想のもとでは許される行為ではない。
最低限許されるものは、国民の生命、身体などに対する急迫不正の侵害に対する防衛、
すなわち正当防衛としての自衛である。
そのような自衛を超えて敵国を攻める思想は「報復の思想」であり、
理由のない侵略か、過剰防衛である。

こんな話をすると、
「先生は麻原を死刑にしないというのですか?」
との問いが死刑存置論者から返ってくる。
「そうです。死刑にする意味はありません。
麻原を死刑にすることで何が解決しますか?」と聞き返す。
私はそれによって解決するのは、被害者の応報感情の満足だけであると思う。
しかしその応報感情は死刑にしたからといって本当に解決するのだろうかとも思う。
死刑に変えて終身刑でよいのではないか。
終身刑では人間としての反省を強要し
被害者に対する少しでも謝罪の感情に行き着く機会
(人間ならば例え一塵であってもその可能性はあろう)を与える。
死刑はその可能性を永久に奪うことでもある。

犯罪被害者の救済は、死刑の存廃の議論とは全く別に、
国家が政策的にももっともっと人権救済の立場から
手厚くしなければならない分野ではなかろうか。

刑事弁護に熱心な人は、
かつて刑事手続きに「被害者参加制度」を導入することに反対した。
しかしすでに導入されている参加制度が刑事訴訟手続きを歪めているとは到底思えない。

そして、具合的な個々の刑事弁護も、個々の被害者救済の活動も、
現行制度のもとで、
依頼があればそれぞれその立場にたって最大限のベストを尽くすことは
人権擁護を社会的使命とする弁護士の当然の責務である。

なお、被害者救済に関していえば日弁連はもっと積極的に活動を行うべきであろう。
国民の中には、「日弁連は刑事弁護の活動については十分な実績はあるが、
それに比べて被害者の人権の擁護活動は極めて不十分である」との
批判があるのではないかと思われる。

被害者支援の活動を充実させることにより、
死刑廃止に対する国民の理解が一歩でも進むことを願うものである。

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