2007年05月17日

エリザベート ウィーン来日版~新宿コマ劇場~

今回の宝塚雪組の「エリザベート」~愛と死の輪舞~再演は、1996年に、一路真輝、花総まりの雪組コンビで上演されて以来、星、宙、花、月の全組での公演を経ての六回目の公演である。この間のトートとエリザベートの配役は順に、一路&花総、麻路さき&白城あやか、姿月あさと&花総、春野寿美礼&大鳥れい、彩輝直&瀬奈じゅん、と豪華な顔ぶれであり、花総が二度エリザベートをやっていること、男役瀬奈がエリザベートをやっていることが目立つ。また姿月、春野の歌唱力に定評のあるトップが演じていることも名曲の連なる作品としてその評価を高めている。そして一路真輝は、宝塚初演で日本で初めてのトートを演じ、退団後も同じ小池修一郎演出の東宝の舞台でエリザベートを演じ、一路の代表作となった。私は、エリザベートは、この連作からもみての通り、ベルばらと並ぶ宝塚の代表作品であると断言して良いと思う。ベルばらは、原作池田理代子で、ミュージカルとしては宝塚だけの作品であるのに対して、エリザベートの出自はウィーンミュージカルである。

さて、この7月の水夏希と白羽ゆりの雪組上京に先立って、ウィーン劇場協会制作の「エリザベート」を新宿コマ劇場で観る機会があった。5回に及ぶ宝塚版を見慣れたものにとっては、基本的なストーリーが頭に焼き付いており、歌詞や台詞も字幕スーパーで確認でき、全く違和感なく惹き込まれる舞台であった。
何よりも感動したのは、歌唱力の素晴らしさである。エリザベート役のマヤ・ハクフォートの美しい声に魅了される。それがただ美しいだけでなく、場面によっては、エリザベートの自由への希求や意思の強さを示す力強い歌声、これがまたよく伸びて劇場を包む。
また、他の出演者の歌唱力も極めて高い水準で「ああこれが本場ウィーンの舞台か」と感激させられる。そして全編にわたって耳を離れない曲が続く。中でも、宝塚版でも毎回感動する「闇が広がる」「二つのボート」は名曲中の名曲。この曲だけでもチケット代の価値はある。
一方、宝塚版との違いも随所に散見し、その比較も楽しい。宝塚はあくまで主役は男役の世界。「トート」がトップスターであり、あくまで「エリザベート」は題名でこそあれ相手役。来日版は、あくまで主役は題名の通り「エリザベート」であり、その一生の内面の葛藤を中心に描いている。宮廷の古きくびき、その権化であるゾフィーとの緊張感のある相克、エリザベートへの愛情を持ちながら現状を容認するだけで、エリザベートの自由への渇望に応え切れない皇帝との断絶、しかしその自由への希求が必然的にもたらす精神的な重圧を自らの強い意志だけでは支えきれない現実。そこに「トート」という人格を現すことによって、この作品は「エリザベート」を極めて巧みに描ききっている。もちろん「トート」への傾斜も一面的ではなく、自立の意思への間で揺れ動く。歴史の実在の人物をハプスブルグ家の崩壊という大きな歴史の流れの中で描きながら、「トート」という、えもいわれぬ人格を配して、人間の精神の深い奥底をみせてくれて、観ている方がいやでも納得してしまう。こんな作品に私は出会ったことがない。エリザベートを中心にして、「トート」と現実の対極の輪舞。そしてその対極の一つは男女の愛に表現された皇帝との対決。それにもう一つの対極軸は古きハプスブルク家に代表される一切の人物。これらがちりばめられて展開してゆく。その舞台回しがルキー二。
ところで、私の観たコマ劇場版は、もともとのウィーン版の装置が劇場の関係で使用できず、舞台中央にオーケストラを配し、その周囲を使っての制約された舞台であった。宝塚で言えば地方公演である。従ってほとんど大仕掛けな舞台装置がない。見た感じも一見中央のオーケストラが舞台の中央を占めており窮屈な印象を与える。にもかかわらず、舞台が始まると、そのハンディを感じさせない強烈な印象を発し続ける。メンバーがフルキャストであったことや、何にもまして、歌唱力、演技力、その表現力の高さから来るものであろう。でもやはりさらにフル装置の舞台で一度観たいと思ってしまう。
一方宝塚版では、ドイツ圧政の場面などカットされている部分もあるが、宝塚版も概ねストーリーはこのウィーン版に忠実だ。しかし、最初に述べたように、エリザベートの内面についてはウィーン版の方がはるかに深い。例えば精神病院での場面など、そのあとにエリザベートが一曲歌言うが、宝塚版の歌詞より、ウィーン版の字幕の訳が内面をえぐられるような鋭さがある。細かなところでは、ゾフィーとその側近たちのマダムウォルフの娼婦を使った策略の場面が、エリザベートに感染症が移ったとされるところを、宝塚版では女性と一緒の写真をみせる形で処理されている。これらもまた、宝塚の持つ様式と、その中で光る男役の美しさ、宝塚の相手娘役の持つ清廉さのコードの故か。
さて私は宝塚版も大好きだ。しかし、あえておそれずに言えば、宝塚の様式美で包んだ作品はまた別の作品であるのかも知れない。トートのエリザベートをめぐってのダンスの誘いの場面でも、宝塚版では男性の肉欲的な面が昇華されていてそれが美しいと感じるのは、私だけだろうか。であれば宝塚版はより一層、「死=トート」を主役として純化し、日本的な「黄泉の国」の帝王として、また現実世界に向かってハプスブルク家の崩壊を含む歴史の創造者として君臨させる方向をさらに一層強調しても良いのではないか。宝塚が女性だけの舞台であり、それが宝塚男役の成り立つ基盤であり、そしてトートはまたそれにピッタリの登場人物であると言うことに帰着する。今後も宝塚の代表作として、期待していきたい。
さて、次は宝塚新生雪組版である。楽しみに待とう。

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